2013年8月26日月曜日

どうして「いい曲」と思うのか?

 いい曲ってなんだろう…?  
 自分自身、割と簡単に「これはいい曲だ!」と口走ることが多い。でも「なんで?」と聴かれると、パッと答えられない。「いい曲談義」になっても、「あの曲いいよね!」という話は弾むが、「なぜいい曲なのか」という話にはあまりならないような気がする。感想を述べ合うだけならいいが、「話し合って1曲を選ぶ」というシチュエーションになると、なかなか難しい。 例えば、「学級で1曲リクエスト曲を決めよう」なんて、なかなか決まりやしない。そして、自分が一番悩むのは、「クラス対抗合唱コンクール」の選曲である。先日、少々思うところがあって、いい成績を取っていたり、人気があってよく歌われる合唱曲を並べてみた。そこで気付いたことがある。「カノン進行」が用いられている曲が多いのである。さらに副教材の合唱曲集をパラパラめくってみる。なんと多くの曲が「カノン進行」を使っていることか!  ご存知の通り、「カノン進行」を用いてヒットしている楽曲は多い。なんだ、「この曲いい曲だ~」って、カノン進行だったからなのか。15年も教員やっていて気付かなかった。(教えてくれる先生・先輩もいなかったけど)  それで、自分の感性で候補曲を選んで生徒に聴かせ、選ばれていたのは「カノン進行」の曲だったのである。反省した。これでは不公平ではないか。全部「カノン進行」の曲にするか、全部「カノン進行」以外の曲にするかしなければならなかった。また、合唱コンクールの審査員をしていて、どうしても「曲の力」が働いてしまう例も出てくる。きっと「この曲いい曲だからなぁ~」と無意識に感じていたのは、「カノン進行」だったのだ。それさえわかっていれば、そんなに戸惑わなくて済んだのだ。では、「カノン進行」さえ使っていればいいのか…? よく言われる「詞がいいから」いい曲とするならば、「いい詞でカノン進行」ならいい曲なのか? だったら都都逸みたいなものじゃないか。それって、本当に音楽を楽しんでいるのだろうか?  でも、「カノン進行」を使うと、確かにいいんだよね(笑)それは否定できない…。 いい曲ってなんだろう…?  
 余談。  
 卒業式が近い。卒業合唱の定番である合唱をながめていた。正直、何で人気があるのかよくわからなかった。やっと最近気付いた。
 歌い出し、4拍ずつの「カノン進行」  
 次のメロディー、2拍ずつの「カノン進行」。
 最後のメロディー、「王道進行」。  
 ポップスの鉄板のコード進行で作曲されていたのである。  
 そこに、あの詞がのっかり(素敵だとは思うが、すごいとも思わないのだが…)、あの曲ができたドラマが背景にあり、広まっていったのだ。  
 もちろん批判するつもりは毛頭なく、それ以外の面でのよさを探せるようになりたいと思う。もし盲目的にこれをいい曲だと思ったら、そうだな、「都都逸的情報過多風な価値判断」という名の鑑賞とでも言おうか、そんな感じになってしまい、それは音楽をきちんと聴いていないような気が資するから。
 「いい曲」ってなんだろう…?

2013年2月11日月曜日

音楽鑑賞とラーメン

 某ラーメンマンガを読んでいた時だ。
 そこに登場するラーメン評論家が、世の中の人々が「『ラーメン』を食べているのではない。『情報』を食べているのだ」というようなセリフを言っていたシーンがあった。これを読んでドキッとさせられた。
 「自分は本当に『音楽』を聴いているか?」「『情報』を聴いているだけでないのか?」
 例えば、私事だが、チャイコフスキーの音楽を聴いて、「寒い」と感じるのは、音楽そのものを聴いて感じるのではなく、「ロシア」をイメージして聴いてしまっているからで、ひょっとしてこれは正しく音楽を理解するためには邪魔なことなのではないか、と思うのである。
 ヒット曲を、無名の人が歌ったら本当にヒットしたのか…? プロモーションの勝利なのではないか?  その曲の成立背景における「感動秘話」に感動して聴いていないか? 本当に音楽だけを聴いて、伝わり、感動できるか?
 演奏会前に、プレイヤーがしゃべったりプログラムノートに書いたりしてあること「を」聴こうとしてしまっていないか? それでいいのか?
 つまり、鑑賞しようとしている曲の「情報」だけを聴き取っていないか? ということなのである。
 もちろん、「情報を知れば知るほど鑑賞が豊かになる」みたいなことを、友達の誰かが言っていたが、それはそれでその通りだと思う。
 が、鑑賞の授業で「情報だけ」を取り上げる、というのがまずいのだと思う。音楽を聴く、という本質がないがしろになってしまう。「あそこのラーメン屋さんが有名だから」「みんなおいしいって言っていたから」食べるようになることと同じで、自分の感性を無視して情報のみで音楽を判断してしまわないだろうか。
 結局、記号解釈なのだ。
 「雪」という記号を、沖縄の人と新潟に人が、それぞれ自分の中にある「意識という名のプール」に浸し、出てきた感情は、同じ「雪」でも違うはずだ。
 同じラーメンを食べても、人によって出てくる感情は違うはずだ。
 同じ音楽を聴いて、それを自分の意識という名のプールに浸して、出てきた感情は、違うはずだ。
 ただ、音楽には2種類の記号解釈があるような気がする。
 音楽を構成する要素を聴き取って、感じるもの。
 音楽に付随する情報を解釈して、感じ取るもの。
 「感性のプール」と「知性のプール」というか、そういうものがあるのではないかと思う。もちろん、それが一体となった「私だけのプール」というのを認識できているのが一番良いと思うのだが…。
 某美食マンガは、一般人の味覚の表現の幅を格段に拡げた功績(?)があると思うが、これを私のように「情報収集・知識の蓄積」や「マニュアル本」のようにして読んでは意味がないわけで(「あぁ、この食べ物はまったりとしてそれでいてコクのある食べ物なんだ、と認識だけするような」…。  そういえば、ある著名な法人作曲家が「知性と感性をキャッチボールして作曲する」みたいなことを書いていたっけ。
 授業では記号解釈の方法を伝え、普段の生活でそれを生かしてほしい。それが音楽の授業、音楽の指導ではないかと思う。
 でも、今生徒たちは、明らかに「情報」のみで判断しているように思えてならない。ラーメンと同じように…。
 <中学生が「その音楽が好きな理由」でよく書くこと>。
「歌詞がいいから」「○○が歌っているから」「好きなゲームの音楽だから」「まわりのみんなも好きだから」

2013年1月28日月曜日

生徒は本当に「音楽」を聴いているか?

 授業で「5分間音楽」という活動を行っている。  
 1~3年全14クラス同じ曲を聴く。特に解説もせず、一言感想ともう一度聴きたいかどうか評価を書いてもらう。そのすべてに目を通し、何人かの感想をピックアップして教科通信を作り、曲の開設や乾燥の書き方などの指導をする。
 モーツアルト作曲《きらきら星変奏曲》を鑑賞した。耳慣れたメロディーが出てくるので、生徒の関心は高かったように思う。
 感想に目を通す。「夜空に星が輝いている様子が目に浮かんだ」「たくさん星がキラキラしている」などと書いてくる生徒が多かった。
 ふと思った。
 もちろん、周知のとおりこの曲の旋律はもともと「きらきら星」という歌詞ではない。モーツアルトは「きらきらひかる…」なんてことは全くイメージしないで作曲しただろう。しかし、多くの生徒は星々のイメージを感じ取る。なぜか。
 思うに、「きらきらひかる…」という言葉を前提に感じ取ってイメージしているのではないか。言葉>音楽になっているのではないか。
 生徒に好きな音楽とその理由を問う。「歌詞がいいから」という理由が圧倒的に多い。音楽より先に言葉を聴いてイメージを膨らませているのではないか。
 生徒の中には、学習したことを踏まえて、音楽を形作っている諸要素を知覚し、そこから感受した雰囲気やイメージを書く生徒もいる。「高い音と低い音を同時に弾いていて、暗い所に星が光っている感じがする」「途中から速くなって、流れ星がいっぱい流れてる感じがした」などなど。これも、「きらきら星」という歌詞を知らずにこの音楽を聴いてこのような感想が書けるか、といったら疑問である。前提に「きらきら星」の歌詞というイメージがあっての「知覚・感受」になってしまっていないか。
 もちろん、知識や背景、物語や詩などと共に音楽を味わうのが鑑賞の醍醐味である。ただ、背景にあるものが勝ちすぎてしまっていないか、本当に音楽を聴けているのか、ということに強い疑問を抱いてしまったのだ。
 また、生徒の中にある知識や言葉が、音楽をイメージするのに大きな影響を与えているとするならば、鑑賞授業はどうあるべきなのか、また悩んでしまったのだ。
 とにかく、多くの生徒の《きらきら星変奏曲》の聴き方は、芳しくないことだけは間違いない。しっかり解説して、音楽に耳を傾け、それでも、「星空」を思い浮かべたなら、それはそれでいいのだろうが…。

2013年1月14日月曜日

2013年 抱負

 今年の抱負、というよりも、「これから5年以内の夢」を書こうと思う。    
 これから5年、もっと鑑賞の授業にこだわり、何らかの形で実践集をまとめたい。  
 2015年に大きなイベントがあるので、そこで発表するつもりはさらさらないが、その時に知り合えた方々に紹介しご指導いただけたら…と思う。  
 ここ3年、形になる実践ができず悶々としていたが、少し前向きなアイデアができた、  
 それは…
  「○中 Music Journal」を年3回発行する  
ことである。
 ・授業やテストの中で生徒が書いた優秀な批評文(解説付)
 ・生徒の感想をまとめて教材にした教科通信
 ・私自身の批評文 などで構成する。(6~8ページくらい)
 出来上がったものを、サークル「異邦人」で検討してもらい、今後の実践に生かす。  
 2015年春までに7号くらい、秋にそれまでの集大成の特集号を発行する。  
 2016年以降は、「○中学区 Music Journal」とし、将来は市全体に拡げられたら…と考えている。
 イメージは、京浜教育サークルの児童詩新聞。ゆくゆくは、学校・学区の枠を超え、集めた生徒の批評文を、教師間で共有し学び合う、そんな形にしたい。
 というわけで、今年の抱負は、
 ・まず何はともあれ創刊号を出すこと。(3月)
 ・創刊号をたたき台に、とにかく2号(9月)・3号(1月)を出す。
  ・出したら必ずサークルを開催する。
 
 さて、どうなるか。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2012年1月3日火曜日

さて。

あけましておめでとうございます。
だいぶご無沙汰しておりました。

昨年の反省は、珍しく研究授業を1回もしなかったことです。
来年は無理やりでもやりたい。

そして、「対話型音楽鑑賞授業」の具体的実践を積み重ねていきたい。

理論編を修士論文とするならば、その実践編を作れるような…。

今年のテーマ「仕込み」「実践」「発信」をがんばります。

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 12

最近の具体的な実践はこちら。

http://www.nipec.nein.ed.jp/sidouan/02cyuu/05ongaku/h22/22kaneko.pdf

2011年8月15日月曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 11

対話型音楽鑑賞授業のアイデア:対話を核にした授業~1年 越天楽~

まず、音楽だけを聴取した後で、クイズを出します。「どこの国の音楽ですか?」「いつの時代の音楽ですか?」「何という曲ですか?」と聞いていくうちにだんだんと当たらなくなっていく。もう1度聴いた後で「使われている楽器を1つ書きましょう」という。中には尺八(江戸時代の楽器。越天楽はもちろんもっと以前の音楽)なんて書く生徒もいて、「日本の音楽」との思い込みとそこからの既知の知識から、きちんと聴き取れていません。生徒はだんだん興味をもってきます。
そこで、今度は、ヴィデオで演奏を視聴します。「わかったこと・きづいたこと・おもったことを箇条書きで20個書きなさい」と言います。その後、グループで書いたものを発表しあいます。同じことを書いた人が1人いたら○、2人以上いたら◎をつけます。各グループで◎が付いた意見を全体に発表します。その事例について教師が解説すると、生徒は興味をもって聞いています。
それから、ヴィデオでの楽器の解説を視聴し、改めて演奏そのものを視聴してから感想を書きます。最初に書いた箇条書きの内容に比べ、楽器の音色やテンポ、メロディーなどの音楽を形づくっている諸要素について書いてあることが明らかに多くなり、聴き方に広がりが見られました。
(ここまでが「発見型」ですね)

次の時間には、生徒が書いた感想を、音楽を形づくっている諸要素の視点から分類してみます。自分が気付かなかった指摘を読んだりすると生徒はもう1度聴いて確かめたくなります。
改めて聞いた後、実際に唱歌を歌ってみます。実際に活動をすることで、聴き方がより実感を伴ったものになります。
そして、グループで話し合いながら分類した表に改めて気付いたことを書き込んでいきます。
(ここまでが「吟味型」ですね)

そして、越天楽の紹介文を書いてみます。その後、書いたものをお互い読み合い、自分なりの聴き方の変化や他者の聴き方の違いを知り、今後の学習に生かしていきます。
(ここまでが「批評型」です)

あまりよい例ではないかもしれませんが、学習の段階に応じた授業タイプを用い、題材の中で一貫して対話を有効に用いて、鑑賞の能力を高めようとした1つの試みです。

「対話型音楽鑑賞授業」、イメージできたでしょうか…?