2009年8月31日月曜日

2つの対話

さて。
構成活動を鑑賞授業に取り入れた際(いや、他のシュチュエーションでも同じだけど)、グループ活動での成果を個人のものにするためにはどうすればよいか、ということを考えなければならない。

グループ活動しながら、自己内対話が行われ、思考していることは間違いはない。
この段階の「思考」が外から見えにくかったり、時間がかかるものだったり、個人的の差異が大きかったりするから、見取りが大変なのだが…。

先述したが、グループ活動の中で、他者対話が行われ、周囲の成果を自分に取り入れることができることも大きい。このことが思考を活性化することは間違いないだろう。

個人の思考 (自己内対話)
グループ活動による分析・思考の交流 (他者対話)

この2つの対話が、授業中・活動中にどう行われているか、授業者側がよく把握していく必要があるだろう。

もちろん、難しいです。やってみてわかりました。

2009年8月30日日曜日

図形楽譜を作成する活動と鑑賞

楽曲を聴いて、それを図形楽譜に表す活動をすることで、「構成活動」を仕組むという実践発表があった。実際に模擬授業を受けたのであるが、楽しく活動ができた。

楽曲分析の疑似体験が楽しい

ということを感じることができた。

このような思考プロセスを間におかないと、鑑賞授業において、批評力は高まってこないだろう。

2点、気になったことがある。
1つは、わざわざ楽譜が存在するクラシック音楽を聴いて、図形楽譜にする必要が本当にあるのか、ということである。確かに、自分が楽曲分析する時、メモ的に図化したりすることはよくある。だが、授業として、何か、本道ではないような感じがするのである。
逆に、楽譜が存在しない楽曲だからこそ、やってみたい、というのもある。(難しいだろうけど)

もう1つは、それこそ、民族音楽や日本音楽における「楽曲分析」とは何か、その疑似体験を楽しくするとはどういうことか、ということである。(まずだいたいあそういうアプローチが必要か否か?)

「構成活動」を意図することで鑑賞の能力を高めようとする実践は自分も拙いながらやったことがある。(自分はサウンド・エデュケーション的にやった)
しかし、それを限られた時数の中で行い、さらにその成長を評価しようとするとなるとなかなか大変だった覚えがある。しかし、生徒は楽しく取り組んでくれたことが印象に残っている。

楽曲分析の楽しい疑似体験=構成活動

を鑑賞授業の中に効果的に仕組めるようになりたいものだ。
(そういえば、この疑似体験に「対話」はつきもの? そうか!自然と対話が起こるような「活動」を仕組んでやればいいのか!)

2009年8月29日土曜日

ゼミ合宿メモ

8月27~28日にゼミ合宿を敢行。

1日目に、院生・学部生8名のレポートを検討。

僕は、
・6月の研究授業の報告書
・安野功先生の「社会科授業が対話型になっていますか?」のマネをした「音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか?」というパクリリポート(その中に対話型鑑賞授業の理論・モデルがある。これはパクリではない)
・論文プロット
を持っていった。

先生から「いいところまで来ている」と言っていただいたが、つまりそれは「早くこの先に行け」という意味だろう。
来週あたりから本格的に論文を書き始めようと思う。

2009年8月27日木曜日

音楽科における思考力

対話型音楽鑑賞授業を目指している。
6月に研究授業を行ったが、「対話をすること」が目的になってしまったような気がする。

「対話」をすることで、生徒は思考する
「対話」なら、楽しく思考できる

という視点が全く欠けていたことを反省した。

対話型にすることで、批評力を高めることを目指している。
研究授業では、「批評文を書かせること」が目的になってしまったような気がする。

批評文を書くまでのプロセスが思考であり、そのプロセスが楽しい
経験→分析→再経験→評価というプロセスの中で、分析することが楽しい

という視点がないと、鑑賞の授業(批評文を書くこと)は楽しくなくなる。この視点も全く欠けていた。

批評することは思考なのだ。
思考するプロセスを楽しくなるような工夫が必要だ。
この視点を入れて、授業モデルをもう1度考え直す必要がある。

2009年8月26日水曜日

イメージをもつこと・もたせること

絵画を用いた批評活動の実践について発表があった。
生徒がイメージが豊かになって、その後の批評活動が充実したとあり、大変参考になった。

そこで気になったことは、「批評の第1段階は、本当に『イメージ』か?」ということである。
(感情はありえると思う)
いわゆる西洋音楽ならばあると思う。
日本音楽や民族音楽で、最初にイメージを持たせることがはたして効果的なのだろうか?
どんな感情を持ったか、はあると思う。

かくいう自分も院に来るまでの10年間の実践で、イメージをいかにもたせるか、ということばかり考えていたと思う。そんな自分を反省していたので、かえって気になったのだと思う。

「音楽に対して、まず第1段階は『イメージ』」ではないのではないか。
ではどうあるべきか、とすぐ考えてしまうのだが、多様な音楽には多様なアプローチがある、とするのが自然か、そうだとすると研究するのは難しいなぁ、なんてことを考えてしまった。

2009年8月25日火曜日

「身体表現」や「批評」を用いた鑑賞授業の問題点

私は「身体表現」が苦手である。
子どものころ、それをやるのは恥ずかしかった。
教師になって、それをさせるのもうまくできない。
「身体表現」を授業でうまく活用している先生を本当に尊敬している。
が、実践を見聞しても、どうしても違和感が残るのである(それは自分自身のせいであり、実践のせいではない)。

先日、批評文を書く活動を中心にすえた研究授業を行った。
「紹介文」ならまだしも、「批評文」を書くことに戸惑いを持つ生徒がとても多かった。
「書くことがなければ『鑑賞』が好きな人?」という問いにほとんどの生徒は手をあげていた。
(演奏することが好き?という問いにもほとんどが手を上げる生徒たちだったのだが)

歌唱や器楽は、良くも悪くも(?)音楽的である。
多分、生徒たちは、「音楽の授業であるならば避けては通れない」と無意識に感じているのではないか。だから好きだろうが嫌いだろうが、得意だろうが苦手だろうが、「取り組まなきゃいけないものだ」と思ってくれているような気がする。
だが、身体表現や批評は、音楽の授業でそれを行うことに関して、生徒は必然性を感じるだろうか?と漠然と思った。
つまりそれは、動機が弱いということである。そしてそれは意欲につながらない。
そのような状態でやることに意味があるのか、と思ってしまうのである。
歌唱や器楽に比べて、身体表現や批評は、「取り組む必然性を感じさせることからすでに難しい」のではないか。
(創作も難しいが、どちらかといえば歌唱や器楽の方に近いと感じる)

音楽の授業の中で、
批評することが、もっと当たり前に感じられるような、
批評したくてたまらなくなるような、
歌唱や器楽と同じように「発信」できることに喜びを感じられるような、
実践を作っていかなくてはならない。
(これは私が鑑賞教育の研究をしているために思うこと。身体表現に関しても同様ではないだろうか)

2009年8月24日月曜日

日本学校音楽教育実践学会 第14回全国大会

昨年から1度行ってみたいと思っていた学会。
全日本合唱コンクール新潟県大会と日程がぶつかっていたのだが、どうせ来年から夏休みはコンクール漬けになるんだ、行くとしたら今年しかない、というわけで、久しぶりにコンクールをサボった。

もちろん鑑賞の研究発表を中心に聞く。
中でも宮下俊也先生の発表に圧倒された。
(ここまで研究をしなきゃならないのか、と愕然ともしたが)
先生の発表後、恥ずかしげもなく、6月に行った研究授業の報告書をもらっていただいた。
(それも1つの目的だった)

発表はどれも参考になり、刺激になるものだが、発表以外でもまた違う大きな収穫があった。
「授業作りプロジェクト」での模擬授業で、3人グループを作ることになり、すでにできていた見ず知らずの2人組の中に入れていただいた。
その3人で活動しているうちに意気投合し、1日目終了後そのまま新宿へ飲みに行った。
そこでさらに意気投合して大いに語り合った。これがこの2日間で最も勉強になったことだ。
僕は、もし何かあったら、と思って余分に持っていった研究授業報告書をお2人に差し上げた。
いろいろご意見いただいたことに(それ以上に励まされたことに)本当に感謝したい。
「この3人で何かやりたいねぇ」なんて話にもなった。
現場に戻ってもこういうパワーを持っていたいものだ。

いろいろ考えさせられた2日間であり、そのことについては、また別項で書いていきたいと思う。

2009年8月19日水曜日

自主ゼミメモ

8月5日:『社会科授業が対話型になっていますか』(安野功)を参考に、「鑑賞授業が対話型になっていますか」というレポートを作成し検討する。

8月12日:対話型鑑賞授業モデルを修正し、それをもとに論文の細かいプロットを立て、検討する。

8月19日:6月に行った研究授業の報告書を作成・検討する。

来週はゼミ合宿。
・研究授業報告書
・授業モデル案および第1章の書き出し
を持参予定。