小学校3・4年の複式学級で音楽づくりの授業を参観。
8時間扱いの題材の1時間目。
「自分のとっておきの音を探そう」ということで、いろんな楽器でいろんな鳴らし方を試しながら、自分の好きな音を見つけて、「何をどんな風に鳴らしたか」クイズを出し合おう、というわけ。
みんな楽しそうに活動していたと思うのだが、何人かの児童が、「見つけられなかった~」と言っていた。
「お気に入りの音を見つけられなかったら、この授業って…?」
これは、題材全体の導入にあたるわけで、この後の時間やメインの活動で、目標が達成されればいいので、ここでは試行錯誤の経験ができたこと大きいし、それはそれで意味があるだろう。
でも、児童にとっては、「授業の目標を達成できなかった…」という思いを抱いてしまうのではないか、という危惧がある。
かといって、それぞれの活動の目標をすべて確実に達成されるようにもっていくと、無理が生じることもあるだろうし…難しいところだ。
「自分の好きな音を見つける課題って、難しい…?」
自分の好きな音を見つける、というのは果たして授業の目標たりえるのか、と思ってしまった。
別に授業でやる必要がないともいえる。
また、自分の好きな音を見つけることが、すべての子どもが好きであるとはいえない。むしろ、確率的に好きでない方が多いかもしれない。
「自分の好きな音を探す」ということは、授業の意欲づけにはならないのではないか、という疑問がわいてきた。
「自分の好きな音は何か分析する方法を身につけ、ふだんの生活でそれを生かして探してもらう」というスタンスの方が自然かもしれない。
何か、第三者を意識したミッションを与えた方が、「授業」の中で、意欲を高めて活動ができるような気がするのである。
もちろん、「自分の好きな音を探すことがみんな好き」で、与えられた課題の中でそれをちゃんと探せることができ子どもを育てるのが一番いいとは思う。
ただ、それは高次目標になるのではないか。
では、批評文を書く行為にあたってはどうあるべきか?
これから考えていきたい。
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