前回は4名、今回は5名。
仲間が増えるのはうれしい。
今回は、先日のゼミに持っていたものに、第1章4・5節について少々肉付けをしたものと、第2章のアウトラインを持って行った。来週月曜までに、第1章のとりあえずのメドをつけ、第2章を書き出したい。
人数が増えたので、今までにない新たな視点からの指摘が入り、新鮮な刺激を得ることができた。
その視点から、少々手直しを入れていきたい(そうすると字数が減りそうなんだけど…)
ペーパーテスト研究会の話をチラッとしたら、みんな興味を示した。
…そろっとまじめに準備しなきゃだな。
2009年10月30日金曜日
もう1度授業に挑戦!
おかげさまで、もう1回できることになりました。
今度こそ、もっとまともな授業にしよう。
自分らしい、「対話型音楽鑑賞授業」を目指そう。
授業中のすべての行為が説明できるように…。
論文と同時進行で準備するのは大変だけれど…よりリアリティある授業モデル・授業プランを提案できるようにしたい。
今度こそ、もっとまともな授業にしよう。
自分らしい、「対話型音楽鑑賞授業」を目指そう。
授業中のすべての行為が説明できるように…。
論文と同時進行で準備するのは大変だけれど…よりリアリティある授業モデル・授業プランを提案できるようにしたい。
2009年10月29日木曜日
2009年10月28日水曜日
音楽科における「ノート」
10年位前、教員なりたてで、まだ音楽の授業が1年生で年間70時間あったころ。
僕はノート作り・ノート指導をこだわっていた。
写譜した楽譜や、学習プリント、定期テスト、鑑賞ノートなどを貼らせ、実技テストでのコメントなど授業時の記録を取らせ…。
そして、最初のページは
「あなたの感動のコード(解釈規則)は何ですか?」
と問うたプリントだった。
『音楽は感動だ」ということを基本に、あなたはどういった時に感動し、それは音楽ではどういう時で、それを明確にするために音楽の授業で、そのコードを自分で探して作っていってほしい、そのための学習の蓄積としてのノートだ、ということにしたかったのだ。
あと、評価に利用できる、という裏目的もあった。
当然、なかなかうまくいかなかったのだが…思想は高尚だったなぁ(笑)
でも、今思う。
これは根底において、「知覚・感受」ノートは作るべきだと。3年間で1冊になるような。
生徒が自覚して学習を蓄積できるような、そしてそれを教師がリアルタイムで評価していくような、今まで音楽の授業では不可能だったことを、「知覚・感受」をキーワードにすれば可能になるのではないか。
授業と、ノートと、ペーパーテスト。これがリンクされれば、授業のシステムとしても安定したものになるのではないか。
授業減に伴い、ノート作り・ノート指導は止めてしまったが、現場に戻ったら、ぜひもう一度挑戦してみたい。
僕はノート作り・ノート指導をこだわっていた。
写譜した楽譜や、学習プリント、定期テスト、鑑賞ノートなどを貼らせ、実技テストでのコメントなど授業時の記録を取らせ…。
そして、最初のページは
「あなたの感動のコード(解釈規則)は何ですか?」
と問うたプリントだった。
『音楽は感動だ」ということを基本に、あなたはどういった時に感動し、それは音楽ではどういう時で、それを明確にするために音楽の授業で、そのコードを自分で探して作っていってほしい、そのための学習の蓄積としてのノートだ、ということにしたかったのだ。
あと、評価に利用できる、という裏目的もあった。
当然、なかなかうまくいかなかったのだが…思想は高尚だったなぁ(笑)
でも、今思う。
これは根底において、「知覚・感受」ノートは作るべきだと。3年間で1冊になるような。
生徒が自覚して学習を蓄積できるような、そしてそれを教師がリアルタイムで評価していくような、今まで音楽の授業では不可能だったことを、「知覚・感受」をキーワードにすれば可能になるのではないか。
授業と、ノートと、ペーパーテスト。これがリンクされれば、授業のシステムとしても安定したものになるのではないか。
授業減に伴い、ノート作り・ノート指導は止めてしまったが、現場に戻ったら、ぜひもう一度挑戦してみたい。
2009年10月27日火曜日
2009年10月26日月曜日
新学習指導要領対応ペーパーテストとは?
ある院生から相談を受けた。
「今まで作ったペーパーテストを見せてもらえませんか?」
なるほど、来春から現場に出るための準備か。
…いやだ、見せたくない!(笑)
この2年間で、音楽科の基本を勉強しなおして、特に評価面でこの10年間がでたらめだったことを思い知らされた。
ペーパーテストなんて、ホント、今振り返ったら恥ずかしいシロモノだ。
…まてよ。
一時期、音楽科にペーパーテストなんていらん、と考えていたこともあったけど、「知覚・感受」については、やっぱりペーパーテストでも評価することが有効なのではないか。
ということは、今のうちに、「知覚・感受」力を意識したペーパーテストを作るための勉強をしておく必要がある。
というわけで、今度その院生と一緒に勉強することにした。
授業が根本から変わる、ということは当然ペーパーテストが変わる。
(ペーパーテストを変えたら授業も変えなければならない)
さて、どんなテストを今後作っていくべきなのだろうか…?
「今まで作ったペーパーテストを見せてもらえませんか?」
なるほど、来春から現場に出るための準備か。
…いやだ、見せたくない!(笑)
この2年間で、音楽科の基本を勉強しなおして、特に評価面でこの10年間がでたらめだったことを思い知らされた。
ペーパーテストなんて、ホント、今振り返ったら恥ずかしいシロモノだ。
…まてよ。
一時期、音楽科にペーパーテストなんていらん、と考えていたこともあったけど、「知覚・感受」については、やっぱりペーパーテストでも評価することが有効なのではないか。
ということは、今のうちに、「知覚・感受」力を意識したペーパーテストを作るための勉強をしておく必要がある。
というわけで、今度その院生と一緒に勉強することにした。
授業が根本から変わる、ということは当然ペーパーテストが変わる。
(ペーパーテストを変えたら授業も変えなければならない)
さて、どんなテストを今後作っていくべきなのだろうか…?
2009年10月23日金曜日
自主ゼミメモ
第1章第3節・第4節を持参。
第3節は、心理学的見地から鑑賞の指導段階を検証するのだが、ちょっと内容が浅いかな。
もっと参考文献に目を通さないといけないか。
第4節は表にまとめたものだけ。
宇佐美先生の書いたものから、学習理論を鑑賞の指導段階にあてはめる。
こちらは、宇佐美先生の作物からエッセンスを取り出そうとするのがなかなか難しい。
きちんと理解しないでやったらやけどしそうな気がする(?)
これを引用などをふくめて、文章にまとめていかなくてはならないのだが…。
第1章は最後に5節で「主体的な鑑賞の能力を育てるための一考察」を提案する。
何とか来週中に第1章にメドをつけたいものだ。
第3節は、心理学的見地から鑑賞の指導段階を検証するのだが、ちょっと内容が浅いかな。
もっと参考文献に目を通さないといけないか。
第4節は表にまとめたものだけ。
宇佐美先生の書いたものから、学習理論を鑑賞の指導段階にあてはめる。
こちらは、宇佐美先生の作物からエッセンスを取り出そうとするのがなかなか難しい。
きちんと理解しないでやったらやけどしそうな気がする(?)
これを引用などをふくめて、文章にまとめていかなくてはならないのだが…。
第1章は最後に5節で「主体的な鑑賞の能力を育てるための一考察」を提案する。
何とか来週中に第1章にメドをつけたいものだ。
2009年10月22日木曜日
音楽科の「見取り図」とは
「教科の見取り図を持っているのがプロ」(谷和樹)
過去の実践や研究者についてまとめ、自分の実践・研究に生かし、「知の力」とする。
現場にいるとなかなかできないことだ。
幸い、大学院で少々勉強することができた。
授業させてもらう関係で先行実践をじっくり調べたり。
我が国の音楽鑑賞教育史を調べたり。
中等教育資料を読み込んだり。
だが…さすがに「見取り図」までいけていないなぁ。
今は論文で手一杯で、幅広さがないような気がする。
(指導要領では「幅広い鑑賞の能力」と言われているけど…)
その見取り図の中で、自分の研究はどの位置にあり、どういう意味があるのか。
そういった視点も、必要だよね。
過去の実践や研究者についてまとめ、自分の実践・研究に生かし、「知の力」とする。
現場にいるとなかなかできないことだ。
幸い、大学院で少々勉強することができた。
授業させてもらう関係で先行実践をじっくり調べたり。
我が国の音楽鑑賞教育史を調べたり。
中等教育資料を読み込んだり。
だが…さすがに「見取り図」までいけていないなぁ。
今は論文で手一杯で、幅広さがないような気がする。
(指導要領では「幅広い鑑賞の能力」と言われているけど…)
その見取り図の中で、自分の研究はどの位置にあり、どういう意味があるのか。
そういった視点も、必要だよね。
2009年10月21日水曜日
音楽科の基礎・基本+新学習指導要領のスタンス=新しい授業の型
音楽科における基礎・基本は、「音楽を知覚・感受する力」である。
新指導要領では、基礎・基本を確実に習得させることを重視している。
つまり、今後音楽科は、
音楽を形づくっている要素を知覚し、そこから醸し出される雰囲気や特質を感受する力を、すべての生徒に確実に習得させなければならない
ということになる。
って、本当にこれでいいのかなぁ?
いや、こうあるべきなんだろうけど、こうしたいんだけれど、それがすべての現場で徹底されるかなぁ?
まぁ、とりあえずそれはおいておいて。
では、鑑賞の授業ではどうすればいい?
○確実に楽曲に集中できる場の設定
○誰もが知覚・感受したくなる発問(指示)
○知覚・感受することが楽しくなる活動
○知覚・感受の力が高まったと実感できる評価
○このサイクルを保障する授業システム
これ、根本的に授業の考え方が変わるような気がする。
もちろん、表現領域でもこうあるべきだろう(最初の段階が、「確実に楽曲を演奏できる状態にする」になるかもしれない)。あれ? 表現領域のほうが難しいかも?
新指導要領では、基礎・基本を確実に習得させることを重視している。
つまり、今後音楽科は、
音楽を形づくっている要素を知覚し、そこから醸し出される雰囲気や特質を感受する力を、すべての生徒に確実に習得させなければならない
ということになる。
って、本当にこれでいいのかなぁ?
いや、こうあるべきなんだろうけど、こうしたいんだけれど、それがすべての現場で徹底されるかなぁ?
まぁ、とりあえずそれはおいておいて。
では、鑑賞の授業ではどうすればいい?
○確実に楽曲に集中できる場の設定
○誰もが知覚・感受したくなる発問(指示)
○知覚・感受することが楽しくなる活動
○知覚・感受の力が高まったと実感できる評価
○このサイクルを保障する授業システム
これ、根本的に授業の考え方が変わるような気がする。
もちろん、表現領域でもこうあるべきだろう(最初の段階が、「確実に楽曲を演奏できる状態にする」になるかもしれない)。あれ? 表現領域のほうが難しいかも?
2009年10月20日火曜日
ゼミメモ
「第2節 音楽鑑賞教育史の俯瞰からみる鑑賞の能力」
を持っていく。
何とかまとめたつもりだったが…
「ここは引用ばかりだからね。自分の言葉にする部分でもっと検討しよう」
ということであっという間に検討が終わる。
うっ…苦労したけど、苦労するような場所じゃなかったのか…。
次回までに第2節の修正と、第3節を持っていく。
今回のポイント。
○戦前では、やはり蓄音機の普及の影響をもっと吟味する必要がある。
○戦後では、「多様な音楽」を理解するということは、「西洋音楽(クラシック)偏重」へのアンチテーゼであることも意識する。
この2点を中心に、もう少し論を深めていく。
を持っていく。
何とかまとめたつもりだったが…
「ここは引用ばかりだからね。自分の言葉にする部分でもっと検討しよう」
ということであっという間に検討が終わる。
うっ…苦労したけど、苦労するような場所じゃなかったのか…。
次回までに第2節の修正と、第3節を持っていく。
今回のポイント。
○戦前では、やはり蓄音機の普及の影響をもっと吟味する必要がある。
○戦後では、「多様な音楽」を理解するということは、「西洋音楽(クラシック)偏重」へのアンチテーゼであることも意識する。
この2点を中心に、もう少し論を深めていく。
2009年10月16日金曜日
2009年10月9日金曜日
2009年10月8日木曜日
どちらの耳で聴くか?
新潟を代表する合唱指揮者、梅山登先生の論文を読み、実験その1。
片方の耳を押さえて、「パノフカ」6番を歌ってみる。
右と左では、確かに聴こえ方が違う。が説明できない。何と言えばいいかまったくわからない。
次に、「砂山」2曲(中山版・山田版)を。
あれ? 歌詞が付くとまた変わるぞ?
右耳を押さえて(左耳で聴きながら、つまり右脳で聴きながら)歌うと、不安定になるのである。
左耳を押さえて(右耳で聴きながら、つまり左脳で聴きながら)歌うと、発声練習の時とあまり変わらない。
おもしろい~不思議~
お友達で、最近片耳が不自由になってしまったが、演奏活動(声楽)をがんばっている人がいる。
その人が言っていたが、「やっぱり音を立体的に捉えることが難しいんです」…なるほど~。
(実は僕も最近片眼(左)が見えなくなった。やっぱり遠近感がイマイチで、急に飛んでくるものに対して弱い。というわけで球技関係は一切止めた。何となく友達の気持ちがわかる。あれ? 右で見ているということは左脳を使っているわけだ。ということは…? でもあんまり実感ないや)
梅山先生は論文の中で、楽曲を右と左で聴き分けさせている。
さすがに、そこまで研究を広げるわけにはいかないが、学習者の状態を解釈する際のコードの1つとして抑えておいたほうがいいのかもしれない。
もう少しこの実験を続けてみよう。
あと、鑑賞する時の聴き分けを「その2」としたい。それはまた後日に。
片方の耳を押さえて、「パノフカ」6番を歌ってみる。
右と左では、確かに聴こえ方が違う。が説明できない。何と言えばいいかまったくわからない。
次に、「砂山」2曲(中山版・山田版)を。
あれ? 歌詞が付くとまた変わるぞ?
右耳を押さえて(左耳で聴きながら、つまり右脳で聴きながら)歌うと、不安定になるのである。
左耳を押さえて(右耳で聴きながら、つまり左脳で聴きながら)歌うと、発声練習の時とあまり変わらない。
おもしろい~不思議~
お友達で、最近片耳が不自由になってしまったが、演奏活動(声楽)をがんばっている人がいる。
その人が言っていたが、「やっぱり音を立体的に捉えることが難しいんです」…なるほど~。
(実は僕も最近片眼(左)が見えなくなった。やっぱり遠近感がイマイチで、急に飛んでくるものに対して弱い。というわけで球技関係は一切止めた。何となく友達の気持ちがわかる。あれ? 右で見ているということは左脳を使っているわけだ。ということは…? でもあんまり実感ないや)
梅山先生は論文の中で、楽曲を右と左で聴き分けさせている。
さすがに、そこまで研究を広げるわけにはいかないが、学習者の状態を解釈する際のコードの1つとして抑えておいたほうがいいのかもしれない。
もう少しこの実験を続けてみよう。
あと、鑑賞する時の聴き分けを「その2」としたい。それはまた後日に。
2009年10月7日水曜日
音楽鑑賞してみる
ふと思い立って、「音楽鑑賞」をした。
いつもは、
・何かしながら音楽を聴く
・演奏の参考にするため音楽を聴く
ことばかりなので、実は、「音楽に集中して聴く」ということを普段しない。
…これってまずいよね…。
というわけで、じっくりと聴こうとする。
茂木健一郎先生が「自分の中で鳴る音に耳をすます」と著書で語っている。それをしたかった。
でも、なかなかじっくり聴けないものだ。
またよりによって合唱を聴いてしまったから、いろんな思いが交錯する。
…生徒だってそうだよな。
よく考えたら、僕自身が「聴き方」を教わってこなかったよなぁ。
つまり、「鑑賞の仕方を教える」ロールモデルが実感としていない。
そう考えると、読書をした後、読書ノートを記す人がいるが、僕はしない(できない)。
時折参考になることを抜書きするだけだ。
あれ、読書の仕方もちゃんと教わったことはないよなぁ。
読書でも、音楽鑑賞でも、「自分にくぐらせ」たり、「情報化」したり、「自分の『情報のプール』を認識」したり、というのをあまりにも無意識にやりすぎていたのではないか。もっと意識的に行わなければならないのではないか。
そうか、これが生涯学び続ける力であり、「生きる力」なのか。
読書と音楽鑑賞、ちょっとがんばってみようかな。
(本来がんばるものではないと思うのだが)
いつもは、
・何かしながら音楽を聴く
・演奏の参考にするため音楽を聴く
ことばかりなので、実は、「音楽に集中して聴く」ということを普段しない。
…これってまずいよね…。
というわけで、じっくりと聴こうとする。
茂木健一郎先生が「自分の中で鳴る音に耳をすます」と著書で語っている。それをしたかった。
でも、なかなかじっくり聴けないものだ。
またよりによって合唱を聴いてしまったから、いろんな思いが交錯する。
…生徒だってそうだよな。
よく考えたら、僕自身が「聴き方」を教わってこなかったよなぁ。
つまり、「鑑賞の仕方を教える」ロールモデルが実感としていない。
そう考えると、読書をした後、読書ノートを記す人がいるが、僕はしない(できない)。
時折参考になることを抜書きするだけだ。
あれ、読書の仕方もちゃんと教わったことはないよなぁ。
読書でも、音楽鑑賞でも、「自分にくぐらせ」たり、「情報化」したり、「自分の『情報のプール』を認識」したり、というのをあまりにも無意識にやりすぎていたのではないか。もっと意識的に行わなければならないのではないか。
そうか、これが生涯学び続ける力であり、「生きる力」なのか。
読書と音楽鑑賞、ちょっとがんばってみようかな。
(本来がんばるものではないと思うのだが)
2009年10月6日火曜日
2009年10月5日月曜日
分析批評の学習過程と自然科学研究と声楽学習過程と鑑賞の授業のあり方
井関義久氏の「分析批評の学習過程」は、
1.読解 → 2.主題の仮説 → 3.分析 → 4.批評
となる。これは自然科学研究における「観察→仮説→実験→学説」というプロセスと似ている。
私の最初の声楽の師匠、山形忠顯氏は、声楽学習の過程として、
1.作品の受容感得 → 2.分析・理解 → 3.必要な表現技術を選択・習熟・感情移入 → 4.表現法を総合し、昇華する
と述べている。
似ているなぁ、と思うの私だけだろうか。
鑑賞の授業においては、「仮説」というのはなかなか難しい。
なので、
1.作品の受容(自分なりに聴く) → 2.分析・理解(音楽を形づくっている要素を知覚・感受する) → 3.総合し、批評する
という流れになるのではないか。
実は、「1.作品の受容」の面が、授業を構想する者としての考察が足りないのではないか、と感じるようになった。
作品と出会い、作品を自分にくぐらせ情報化し、と同時に自分の音楽情報のプールも意識化する。
分析・理解はその後で、そしてもう1回聴いた時に、聴き方がかわり、より深い批評ができるようになる…。
そんな授業ができるようになるといいのかなぁ。
1.読解 → 2.主題の仮説 → 3.分析 → 4.批評
となる。これは自然科学研究における「観察→仮説→実験→学説」というプロセスと似ている。
私の最初の声楽の師匠、山形忠顯氏は、声楽学習の過程として、
1.作品の受容感得 → 2.分析・理解 → 3.必要な表現技術を選択・習熟・感情移入 → 4.表現法を総合し、昇華する
と述べている。
似ているなぁ、と思うの私だけだろうか。
鑑賞の授業においては、「仮説」というのはなかなか難しい。
なので、
1.作品の受容(自分なりに聴く) → 2.分析・理解(音楽を形づくっている要素を知覚・感受する) → 3.総合し、批評する
という流れになるのではないか。
実は、「1.作品の受容」の面が、授業を構想する者としての考察が足りないのではないか、と感じるようになった。
作品と出会い、作品を自分にくぐらせ情報化し、と同時に自分の音楽情報のプールも意識化する。
分析・理解はその後で、そしてもう1回聴いた時に、聴き方がかわり、より深い批評ができるようになる…。
そんな授業ができるようになるといいのかなぁ。
2009年10月4日日曜日
昨年11月26日のメモより
「文学作品の読みの指導とは、記号解釈の指導である。その目的は学習者内部のコードを増やしてやることである。これにより、学習者が自力で解釈できる範囲は拡大する。」
(宇佐美寛・問題意識集3 より)
俺、いいことメモしてたな(笑)
この具体的な手立てとして、川上先生は「比べ読み・重ね読み」を提案している。
「音楽作品を聴く指導とは、記号解釈の指導である。その目的は学習者内部のコードを増やしてやることである。これにより、学習者が自力で解釈できる範囲は拡大する」
なんて、言い換えられないものだろうか。
そのための手立てとして、「比べ聴き・重ね聴き」が有効ではないだろうか。
ちょっと安直すぎるかな。
でも、こんな主張があってもいいのに。
こんなにわかりやすく鑑賞指導についてズバッて言い切っている人、少ない。
(賛否はおいておいて)
(宇佐美寛・問題意識集3 より)
俺、いいことメモしてたな(笑)
この具体的な手立てとして、川上先生は「比べ読み・重ね読み」を提案している。
「音楽作品を聴く指導とは、記号解釈の指導である。その目的は学習者内部のコードを増やしてやることである。これにより、学習者が自力で解釈できる範囲は拡大する」
なんて、言い換えられないものだろうか。
そのための手立てとして、「比べ聴き・重ね聴き」が有効ではないだろうか。
ちょっと安直すぎるかな。
でも、こんな主張があってもいいのに。
こんなにわかりやすく鑑賞指導についてズバッて言い切っている人、少ない。
(賛否はおいておいて)
2009年10月3日土曜日
自主ゼミメモ
晩ごはんを食べながらゆるゆると。
いよいよ来週からゼミが再開するということで、僕は第2節を書き上げる予定が…なかなか進まない。
第2節は、日本音楽鑑賞教育史から主体的な鑑賞の能力を検証するというものだが、来週の月曜日までには半分(戦前まで)しかいかないかもしれない。
昨年の秋には、寺田貴雄先生の論文をもとに、だいたいの音楽鑑賞教育史をまとめていた。
1年経って、やっと論文化しようとしているのだが、その時は「主体的な鑑賞の能力とは何か」ということもわからず調べていたので、足りない面が見えてきた。
例えば、当時の時代背景(国内外の世の中、音楽界、教育界など)をからめようとする必要が出てきたりする。
個人的には調べることは勉強になったり知的興奮があるのだが、それを論文にしようとすると難しくて意欲が萎える。この繰り返し。
来週と再来週で第2節は終えたい。
あと、来週は第1節を先生に見ていただく。その修正も進めなくては。
今月と来月が勝負です。
いよいよ来週からゼミが再開するということで、僕は第2節を書き上げる予定が…なかなか進まない。
第2節は、日本音楽鑑賞教育史から主体的な鑑賞の能力を検証するというものだが、来週の月曜日までには半分(戦前まで)しかいかないかもしれない。
昨年の秋には、寺田貴雄先生の論文をもとに、だいたいの音楽鑑賞教育史をまとめていた。
1年経って、やっと論文化しようとしているのだが、その時は「主体的な鑑賞の能力とは何か」ということもわからず調べていたので、足りない面が見えてきた。
例えば、当時の時代背景(国内外の世の中、音楽界、教育界など)をからめようとする必要が出てきたりする。
個人的には調べることは勉強になったり知的興奮があるのだが、それを論文にしようとすると難しくて意欲が萎える。この繰り返し。
来週と再来週で第2節は終えたい。
あと、来週は第1節を先生に見ていただく。その修正も進めなくては。
今月と来月が勝負です。
2009年10月2日金曜日
実際に鑑賞の授業をする時に
僕は半分冗談・半分本気で、
「10%効果が上がる合唱指導法」
というのを個人的に編集している。今、40くらい集めたかなぁ。
コンセプトは、
・必ず自分で効果を確かめる
・必ず誰でもできるもの
・必ず、楽曲を練習している中で用いることができるもの
・楽曲を練習している中で、「あ、今うまくなったかも」という気付きをたくさん積み重ねていけば、意欲が高まり、結果としていい演奏につながる
など。
例としては、「タンギング唱」「ADR唱」「アイアイ唱」(これらは初級編)など。
もちろん、この前段階として、その楽曲に対する解釈・分析は必要(あまりしたことがなくて反省している最中)。
でもこのスタイルはかなり自分らしさを出しているように思う。
さて。鑑賞の授業においてはどうだろうか。
もちろん、楽曲に対する解釈分析が最優先。
だが、実際に授業する時、「10%聴取力が高まる鑑賞指導法」が必要になるのではないか。
つまり、音楽を形づくっている要素を知覚・感受する際、
・誰でもできて
・特殊な訓練ではなくて
・それを積み重ねていくことで、聴くことがだんだん楽しくなる
指導法だ。
それが、自分らしい鑑賞の授業を生み出していくのだろう。
それ、考えたこともなかったなぁ。
なぜ考えたこともなかったのか(合唱では考えついたのに)が、すごく反省点。
正直、このことは修士論文には載らない。
でも、今こそ考えておくべきことなのかもしれない。
「10%効果が上がる合唱指導法」
というのを個人的に編集している。今、40くらい集めたかなぁ。
コンセプトは、
・必ず自分で効果を確かめる
・必ず誰でもできるもの
・必ず、楽曲を練習している中で用いることができるもの
・楽曲を練習している中で、「あ、今うまくなったかも」という気付きをたくさん積み重ねていけば、意欲が高まり、結果としていい演奏につながる
など。
例としては、「タンギング唱」「ADR唱」「アイアイ唱」(これらは初級編)など。
もちろん、この前段階として、その楽曲に対する解釈・分析は必要(あまりしたことがなくて反省している最中)。
でもこのスタイルはかなり自分らしさを出しているように思う。
さて。鑑賞の授業においてはどうだろうか。
もちろん、楽曲に対する解釈分析が最優先。
だが、実際に授業する時、「10%聴取力が高まる鑑賞指導法」が必要になるのではないか。
つまり、音楽を形づくっている要素を知覚・感受する際、
・誰でもできて
・特殊な訓練ではなくて
・それを積み重ねていくことで、聴くことがだんだん楽しくなる
指導法だ。
それが、自分らしい鑑賞の授業を生み出していくのだろう。
それ、考えたこともなかったなぁ。
なぜ考えたこともなかったのか(合唱では考えついたのに)が、すごく反省点。
正直、このことは修士論文には載らない。
でも、今こそ考えておくべきことなのかもしれない。
2009年10月1日木曜日
情報のプール
「授業刺激として子どもが受け止める情報はの解釈は(中略)、子どもが持っている情報のプール(あるいは、概念組織または概念網)の中を通すことによって行われる」
(宇佐美寛 『宇佐美寛・問題意識集7 論理的思考と授業の方法』明治図書 2003年)
これは、齋藤孝先生の言う「自分をくぐらせる」ということと、よく似ていると思う。
情報のプールが貧弱だと、情報の解釈も貧弱なものとなる。
だから宇佐美先生は課題図書を課すのか…。
では、子どもにとって「音楽情報のプール」って…?
まず、子どもがそんな意識、もっていないだろう。
「情報処理」ばかりで、「情報化」する聴き方なんて、ほとんど意識的には行われていないだろう。
「ことば」でないので、共有することも難しい。音楽をことばに変換することも、ほとんど意識的には行われていないだろう。
そう考えると、音楽情報のプールが充実すれば、他教科・他分野の学習をする際の情報のプールも充実するんじゃないかな?(逆もしかり)
授業の最初の段階で、
・楽曲との印象的な出合い
・それとともに、現時点での自分の音楽情報のプールの確認
が、難しくなくできるといいのだが…。
もしくは、情報のプールを充実したものにするため、「とにかくたくさん聴く」という経験をさせたい。でも時数的には無理。ということは、たくさん聴いて情報のプールを充実させたい! と子どもが思うような授業をすることが肝要なのではないか。
さて、私の音楽情報のプールはどうなっている?
…けっこう貧弱かもしれない…読書+音楽鑑賞を私自身がたくさんしなきゃ。
(宇佐美寛 『宇佐美寛・問題意識集7 論理的思考と授業の方法』明治図書 2003年)
これは、齋藤孝先生の言う「自分をくぐらせる」ということと、よく似ていると思う。
情報のプールが貧弱だと、情報の解釈も貧弱なものとなる。
だから宇佐美先生は課題図書を課すのか…。
では、子どもにとって「音楽情報のプール」って…?
まず、子どもがそんな意識、もっていないだろう。
「情報処理」ばかりで、「情報化」する聴き方なんて、ほとんど意識的には行われていないだろう。
「ことば」でないので、共有することも難しい。音楽をことばに変換することも、ほとんど意識的には行われていないだろう。
そう考えると、音楽情報のプールが充実すれば、他教科・他分野の学習をする際の情報のプールも充実するんじゃないかな?(逆もしかり)
授業の最初の段階で、
・楽曲との印象的な出合い
・それとともに、現時点での自分の音楽情報のプールの確認
が、難しくなくできるといいのだが…。
もしくは、情報のプールを充実したものにするため、「とにかくたくさん聴く」という経験をさせたい。でも時数的には無理。ということは、たくさん聴いて情報のプールを充実させたい! と子どもが思うような授業をすることが肝要なのではないか。
さて、私の音楽情報のプールはどうなっている?
…けっこう貧弱かもしれない…読書+音楽鑑賞を私自身がたくさんしなきゃ。
登録:
投稿 (Atom)