2011年8月15日月曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 11

対話型音楽鑑賞授業のアイデア:対話を核にした授業~1年 越天楽~

まず、音楽だけを聴取した後で、クイズを出します。「どこの国の音楽ですか?」「いつの時代の音楽ですか?」「何という曲ですか?」と聞いていくうちにだんだんと当たらなくなっていく。もう1度聴いた後で「使われている楽器を1つ書きましょう」という。中には尺八(江戸時代の楽器。越天楽はもちろんもっと以前の音楽)なんて書く生徒もいて、「日本の音楽」との思い込みとそこからの既知の知識から、きちんと聴き取れていません。生徒はだんだん興味をもってきます。
そこで、今度は、ヴィデオで演奏を視聴します。「わかったこと・きづいたこと・おもったことを箇条書きで20個書きなさい」と言います。その後、グループで書いたものを発表しあいます。同じことを書いた人が1人いたら○、2人以上いたら◎をつけます。各グループで◎が付いた意見を全体に発表します。その事例について教師が解説すると、生徒は興味をもって聞いています。
それから、ヴィデオでの楽器の解説を視聴し、改めて演奏そのものを視聴してから感想を書きます。最初に書いた箇条書きの内容に比べ、楽器の音色やテンポ、メロディーなどの音楽を形づくっている諸要素について書いてあることが明らかに多くなり、聴き方に広がりが見られました。
(ここまでが「発見型」ですね)

次の時間には、生徒が書いた感想を、音楽を形づくっている諸要素の視点から分類してみます。自分が気付かなかった指摘を読んだりすると生徒はもう1度聴いて確かめたくなります。
改めて聞いた後、実際に唱歌を歌ってみます。実際に活動をすることで、聴き方がより実感を伴ったものになります。
そして、グループで話し合いながら分類した表に改めて気付いたことを書き込んでいきます。
(ここまでが「吟味型」ですね)

そして、越天楽の紹介文を書いてみます。その後、書いたものをお互い読み合い、自分なりの聴き方の変化や他者の聴き方の違いを知り、今後の学習に生かしていきます。
(ここまでが「批評型」です)

あまりよい例ではないかもしれませんが、学習の段階に応じた授業タイプを用い、題材の中で一貫して対話を有効に用いて、鑑賞の能力を高めようとした1つの試みです。

「対話型音楽鑑賞授業」、イメージできたでしょうか…?

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 10

鑑賞の能力を育てる過程とは、

①鑑賞曲に対して興味・関心を持つ 

②音楽的な感受

③思考・判断・知的な理解

④鑑賞の能力

と、高須氏は述べています。

そこで、

①→②の段階で、「発見型」の授業を、

②→③の段階で、「吟味型」の授業を、

③→④の段階で、「批評型」の授業を、

行っていくのです。

このように、1つの題材の中で、「対話を有効に用いて「知覚・感受」力と批評力を高めることで生徒の思考を促す」のです。

2011年8月14日日曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 9

これまで見てきた、対話型の授業のイメージ①~③をそれぞれ授業タイプとしてあらわすと、

①発見型:音楽を形づくっている諸要素を、複数の耳で聴取し、共有するタイプ。

②吟味型:音楽を形づくっている諸要素から、感じ取ったことを意見交流し、自分なりの聴き方を検討するタイプ。

③批評型:楽曲を聴いて批評し、批評を交流することで自他の批評を見つめ、批評力を高めるタイプ。

ということになるでしょうか。

これを、音楽鑑賞の授業を進めていく中で、段階に応じて取り入れていくのです。

2011年8月10日水曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 8

対話型授業のイメージ③対話をヒントに自他の批評を見つめる~3年生 能体験をしよう~

・どこかが対話型か?

批評文を書く、という行為は、自分なりの聴き方を意識して書くということですから、一種の自己内対話です。この批評文を、生徒同士で交換して読みあう場を設定してみました。これは他者対話です。その場での感想や意見の交流から、改めて自分の批評を見直す。あるいは、仲間がどのような批評眼をもっているか認識する。このような活動を組み込むことで、より批評する力が向上し、その結果鑑賞の能力が向上していくと考えます。

・実践の概要

ゲストティーチャーを招いて、能の体験学習をした後、《船弁慶》のダイジェスト版をヴィデオで鑑賞しました。その後、「能を紹介する文章」を書いてもらいました。
書いた後で、グループごとに紹介文を回し読みしました。楽しそうに読み合っていたのが印象的でした。読み合った後で自分の紹介文に補足したいことを書いたりしている人もいて、学習の深まりもありました。回し読みをした後の感想には、「同じものを見ても皆感じることや考えることが違って、とても面白かったです」「みんながそれぞれに表現が違っていて面白かった」「焦点が一人一人違って自分が書いた紹介文とは違った見方ができた」「人それぞれ感じ方が違ってどれも能について分かりやすくさらに見てみたいなと思えるような紹介文だったと思います」などとあり、自他の批評を見つめることを通して、今後の鑑賞に生きる活動になったのではないかと思います。

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 7

対話型授業のイメージ②対話をヒントに音楽の諸要素や曲想を感じ取る ~2年生 楽曲の構造を知ろう~

・どこが対話型か?

中学2年生くらいになると、自分の考えを全体に発表する恥ずかしさや、全体の前で間違うことを気にして授業の中で他者対話的な活動がなかなかうまくいかないことも多くなります。それでいて、他人の意見や考え方を知りたくて気になったりします。そこで、どのように聴こえたか、どんなことを感じ取ったかを書く場を設けます。これは自分の中で聴いた楽曲をどう捉えたかを自分で意識する自己内対話です。そして、生徒が書いた内容を、匿名でプリントに載せ、配布すると、生徒たちはけっこう夢中になって読んでいます。ここで、意見の交流が行われていることになり、もう1回聴いて確認したい、という気持ちが強くなるようです。(理想は面と向かって対話しながら意見交流することなのですが…)

・実践

《フーガ ト短調》(バッハ作曲)を鑑賞した時のことです。主題を確認し、それが何回現れるか聴き取ったり、実際に演奏しているヴィデオを視聴したりするなど、さりげなく(?)繰り返し聴いた上で感想を書いてもらいました。
次の時間、生徒たちの感想をまとめたプリントを配布しました。生徒が書いてくれた楽曲の特徴や、そこから感じ取れたことについて、プリントを読みながら紹介しているうちに、「先生、もう1回聴こう」とあちこちから声が上がりました。自分が気付かなかった、仲間が指摘してくれたことを早く確認してみたくなったのでしょう。その後鑑賞した時の生徒の集中力はとても高いものになっていました。

2011年8月9日火曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 6

対話型授業のイメージ①対話をヒントに音楽を形づくっている諸要素を聴き取る ~1年生 アジアの音楽~

・どこが対話型か?

普段聴き慣れていない音楽から、音楽を形づくっている諸要素を聴取するというのは、子どもたちにとってなかなか難しいことのようです。この、「経験がない」点を逆手にとり、自由に感想を述べ合うようにすると、教師も気付かないようなところまで気付く生徒も出てきます。そんな意見を参考にして改めて聴き直してみると、より聴き方が深まるようです。

・実践の概要

生徒は前の時間までに、日本の「箏」についての学習を終えていました。「さくらさくら」もある程度ひけるようになるなど、意欲的に取り組むことができました。
そこで、音声だけで、「箏」と「カヤグム(韓国)」「ヤトガ(モンゴル)」「グージォン(中国)」を聴き比べてみました。どの楽器も「箏類」に分類されるものです。「どれが日本の箏かわかるかな?」とアトランダムに聴かせてみました。初めは自信満々だった生徒も、いろいろ聴いているうちに自信がなさそうになってきました。そして、箏以外の楽器は一体どんな楽器なのか興味をもったようです。
今度は、楽器を1つずつ取り上げ、ゆっくり聴く機会を設けました。まず、音声だけで聴きます。生徒に感想を聞いてみると、箏と比べて音が高いとか低いなどの音色に注目(耳)していたようです。次に、実際に演奏しているところをヴィデオで視聴します。感想を聞いてみると、今度は奏法や楽器の構造に意識が向きました。
同じようなやり方で、他の楽器についても鑑賞しました。生徒は次第に感想を言うことに慣れてきたようで、3つ目の楽器の時には指名しなくても自分から感想を発言できるようになりました。
このように、自由に感想を出す「ギャラリー・トーク」的な手立てを用いることで、生徒は前向きな気持ちで聴き方の引き出しを増やしていきました。
こうして出た感想をプリントにまとめて配布し、生徒はそれを読んだ上で改めて鑑賞したところ、それぞれの楽器への関心がさらに高まったように見えました。
最後は、生徒が自分の好きな楽器を1つ選び紹介文を書きました。仲間の感想から得たヒントを基に書きあげた生徒が多かったようです。

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 5

授業について述べる前に…。

先日、ある研修に行った時のこと。

世の中には「○○教育」って言葉が、たくさんありますよね。そのうちの1つについての研修だったのですが…。

その「○○教育」の「教育(授業)の内容」が何項目かあって、

・~~~であることを伝える
・………であることを伝える

というのがずらっと並ぶんです。
私には「これって、授業と言えるのか?」と違和感があったんです。

ただ、最後の項目だけ、

・生徒が△△△できるように指導する。

とあって、「これは授業でしかできない!」と納得できたんです。
(でもその前の何項目ある内容を「伝え」たからと言って、目指す指導になるとはちょっと思えなかったのですが…)

このように、現場と理論には、ちょっと壁がある。
怒られるかもしれないけど、

「○○教育」=「○○の授業」

という図式は成り立たない。

「○○教育」を具現化するために、「○○の授業」をする

のだと思う。

だのに、こういう研修に限って、「教育」について語られるのに、「授業」そのものについて語られることはほとんどない。教育を語れば授業を語ることになると勘違いしている。そう、リアリティがない。それが違和感であり、つならなさになる。

つまり、同じように考えると、

「音楽教育」を具現化するために、「音楽の授業」をする。
「音楽鑑賞教育」を具現化するために、「音楽鑑賞の授業」をする。

となる。
ところが、「音楽鑑賞の授業」について語られる場はなかなかない。
(あれ? 「音楽鑑賞教育」についても…?)

語る場がなければ、自分で作るしかない。

というわけで、次回から(こそ)、音楽鑑賞授業について、それを対話型にすることについて、述べていきたいと思います。

2011年8月5日金曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 4

さて、これまで述べてきたように、音楽を鑑賞する段階として、

・音楽を形づくっている諸要素を知覚する段階
・そこから醸し出される雰囲気や曲想を感受する段階
・知覚・感受したことをもとに自分なりの価値判断をする段階

に分けられます。

そして、どの時も、他者とのかかわりの中でより鑑賞の能力が高まりそうだということを今まで述べてきたつもりです。

つまり、

『音楽鑑賞の授業を対話型にすることで、鑑賞の能力をより高めることができる』

ということをここで提案したいのです。

次項からは、具体的な実践を中心に述べていきます。

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 3

私が教員になって4年目の時。学校全体が盛り上がる校内合唱コンクールが近づいてきました。生徒との話題も、合唱コンクールの話が多くなります。私は合唱部の顧問で、部員の何人かと雑談中、やはり合唱コンクールの話になり、ピアノ伴奏の生徒で誰が上手か、という話になりました。

その輪の中に、Cという生徒がいました。Cさんはピアノが堪能で、歌も上手です(卒業後音楽科のある高校へ、そして音楽大学、さらに大学院と、声楽専攻で進学しました)。Cさんは、「Dさんのピアノはとても上手です」と言いました。私も同感でしたが、正直、Dさんのピアノのには何か物足りないものを感じていました。Cさんは続けて、「でも…なんかこう…」私はCさんが何と言うか興味をもちました。「アツさが足りないんです」その瞬間、私は「それだ!」と思いました。Dさんの演奏に対して、私とCさんが感じ取ったことが同じだったのです。このように、演奏に対しての価値観を共感できたことを嬉しく思ったのでした。

教員14年目の今、実はものすごく反省しています。
「では、なぜアツさが足りないと感じるのか。どうすればアツい演奏になるのか」という問いを私はもち、Cさんにその問いを投げかけるべきでした。
さて、その問いにどのように答えればよいのでしょう。そしてその答えを共感するためにはどうすればよいのでしょう。
例えば…強弱の差があまりついていないから感情の起伏が乏しく聴こえたのか、テンポの揺らぎがあまりないから淡々と聴こえたのか…このように、音楽を形づくっている諸要素と、そこから醸し出される雰囲気や曲想を根拠にして語ればよかったのです。

しかし、このことは大変難しいことです。現に、新聞記事が正しくこれをできていません。私はある時期、音楽に関する新聞記事をスクラップしていたことがあります。音楽をどのように読者に伝えているか、ということに関心をもったからです。ところが、その中には、「音のハーモニーが素晴らしかった」「息の合った音色が響いた」などという、感じ取ったことと知覚した諸要素が噛み合わない、意味不明な記述がありました。実は、これらの報告はまだ音楽の内容を伝えようとしていますが、多くの新聞記事はそこに踏み込もうとせず、演奏会周辺の話題ばかりで記事を構成していることが多いのです。これでは音楽が読者に伝わりません。私はスクラップを始めて半年後、がっかりした気持ちになって新聞記事集めをやめました。

鑑賞の授業では、生徒が知覚・感受したことを根拠に自分なりの価値判断ができるようになるようにしたいものです。そう、「批評」ができるような生徒を育てたい。批評をすることは自分なりの聴き方の意識化と、他者の聴き方の理解につながり、批評し合うことでさらに鑑賞の能力が高まると考えられます。そしてここでも、やはり人とのかかわりは欠かせませんね。

2011年7月31日日曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 2

私が学生時代の話です。
友人Aは、大学の管弦楽団に所属して、熱心にヴァイオリンに取り組んでいました。そんな彼は幼少時からピアノを習っており、絶対音感がありました。ある時、雑談の中でAは私に言いました。

「俺、嬰へ調の曲を聴くと、柑橘系の色というか、気温が高いイメージがするんだよね」

私は絶対音感はありません(相対音感もありません。きっと大体音感なのでしょう)。パッとその曲を聴いて何の調かも聴きとれない私にとってはAの話は「???」でした。

この話を私は友人Bにしてみました。Bは大学で声楽を専攻しており、積極的に合唱活動に取り組んでいました。やはり彼も絶対音感を持っていました。Aがした話を聞いたBはすぐにこう言いました。

「あぁ、そういえばTUBEの『ああ夏休み』は嬰へ短調でしたね」

私はびっくりしました。この2人は「嬰へ調」という要素から、何かしらイメージを感じ取ることができているのです。しかもそのイメージは共感しあう部分があったのです。

私は「調性」という要素から醸し出される雰囲気を感じ取ることが自分に欠けているということを痛感しました。今でも苦手ですが、この経験から自分が音楽活動をする際、楽曲分析やコンサートの選曲などの場面で調性を意識するようになりました。

学生時代に私が立ち上げて指揮している合唱団があります。その合唱団が、まど・みちおさんの「ことり」という詩に私の大学の先輩が作曲した無伴奏混声合唱曲を練習していた時のことです。作品は、基本的に教会旋法風なメロディーと短調のハーモニーによって形づくられています。私は練習中の雑談で、「やっぱり新潟の人だよな(私も先輩も)。空をイメージする時は曇り空だよ」と言いました。そうしたら、あるメンバーから「そうかな? 私は透き通るような青い空だと思うよ」と声が上がりました。

私はハッとしました。私は、
短調の響きが鳴る → 暗い感じがする → 曇り空
というようにイメージしました。
しかし、空を見上げた時、悲しくなるくらい青い空のように感じることも確かにあります。その気持ちが短調の響きや教会旋法のメロディーと相通ずる部分があってもおかしくありません。私は安易な気持ちでイメージを語ったことを後悔しました。

同じ要素(短調の響き)から、どのように感じ取るかは、人によって違うことの方が多いようです。人によって感じ方が違うことを知ることも楽しいですし、もちろん、先の「嬰へ調」の話のように、感じ方が一緒だということが分かった時も楽しいでしょう。

鑑賞の授業では、音楽を形づくっている諸要素を知覚し、そこから醸し出される雰囲気や曲想を感じ取ることが大切であり、その時もやはり「人とのかかわり」を抜きに語れないようです。

2011年7月29日金曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか?  

*以下の文章は安野功先生の『社会科の授業が対話型になっていますか?』(明治図書)のパロディーのつもりです。安野先生の著作に敬意を表し、少しでも近付きたいと考えております。


<眼はそれを追い求めるものしか見つけることはできない>
 これは、フランスの警察に掲示してある言葉だそうです。(確か向山洋一先生の著書の中で知りました)。
 そして、以下のように言い直すこともできるでしょう。
<耳はそれを追い求めるものしか聴きとることはできない>
 私が中学生の時の、給食の時間の話です。
 私の学校ではグループごとに向かい合って歓談しながら毎日給食を食べていました。
 ある時、同じグループの級友が私に言いました。
 「ちょっと耳を澄ませてみろよ」
 それまで、給食中の私の耳には、友達の話か校内放送くらいしか入ってきませんでした(むしろ食べることに夢中だったかもしれません)。
 私は、初めて給食中に周囲の音に集中してみました。
 「ズズーッ ズズーッ」
 その日の給食は麺類でした。私は、クラスのみんなが麺をすすっている音を人生で初めて知覚しました。今まで気付かなかったのが不思議なくらい大きな音で驚いたことを今でも鮮明に覚えています。でも、級友に言われなければ私は気付くことなく中学を卒業していたでしょう。
 あまり品のよい話ではありませんでしたね…。もう少し上品な話にしましょう。
 大学時代、教養科目の中の「音楽」という授業を聴講しました。教材はワーグナー作曲楽劇《マイスタージンガー》です。まず前奏曲を聴きます。出だしからかっこいい音楽が流れますが…当時の私は聴きながらだんだん意識がもうろうとしてきました。結局わけもわからないまま10分ほどが過ぎました。その後、先生が楽譜を配って解説をはじめました。前奏曲の山場で、個性が全く違う4つのライトモチーフが同時に進行して1つの完成された音楽を形づくっているところです。これには驚き、感動しました。最初に聴いた時は全く気付かず、単なる音の羅列としか思えなかった(そして眠たくなった)のですが、実は計算されつくした構造で、意味あるものになっていたとは…。
 それから聴き直してみると、確かに1曲の音楽の中に、4つのライトモチーフが同時に聴こえてきます。何回か聴いているうちに、この山場を聴くのを心待ちにするようになって、この曲を短く感じるようにもなりました(つまり眠たくならなくなりました)。もちろん、その後楽劇そのものを鑑賞する際も、ライトモチーフが頭に入ってから聴くことができたので何も知らないよりは興味をもって楽しむことができました。
 これも、この授業を聴講しなければ、一生知ることのない経験だったと思います。
 <耳はそれを追い求めるものしか聴きとることはできない>
 音楽を形づくっている諸要素は、自分自身で探すよりも、他者とのかかわりの中でヒントを得たり教わったりする方が、よく気づくことの方が多いかもしれません。
 鑑賞の授業では、教えるべき内容をきちんと教えて気付かせたり、クラスの仲間とのかかわりの中で気付いていったりすることを大切にしたいものです。

2011年7月25日月曜日

対話型音楽鑑賞授業研究会

今夏、中学音楽教師サークル「異邦人の会」主催で、表記勉強会を行います。

そのためのテキストを、これからこのブログ上で作成していきます。

先日、同業者の後輩たちに「合唱指導」の講座を持ちました。
全然うまくいきませんでしたが…。
でも、今後も、合唱指導や「合唱指導」の指導には、呼ばれたら「出向いて」行こうと思います。

もう1つのライフワーク、鑑賞授業については、「招いて」行ってみよう、と考えたわけです。

さて、どうなりますか。

ただ、今の心境は、「できるかどうか自信はない、ただ動いてみたかった」という、久々にわいてきたこの根拠のない感情に素直に従った、といったところです。

2011年2月21日月曜日

最近気になるキーワード

<授業編>
・パターン認識
・鑑賞学 「見る」「知る」「考える」

<学級編>
・孤独力
・マネジメント

<その他>
・学校にはニュース専門局(スクールライフログ)が必要だ
・生徒指導における特殊任務部隊
・「自立」

2011年2月8日火曜日

学級通信

○テスト前なので、ドラッカーと、彼の「時間」についての話を紹介し、時間マネジメントをしっかりしてテスト勉強をがんばるように。

○新潟日報の「きらきらキラリ」より。お世話になった先輩へ。ちょうど卒業式1か月前の日に。先輩への恩返しと、感謝される先輩になれるように。

○4年前に、マー君と佑ちゃんの進路選択について思うところを書いた学級通信を再掲。
 僕よりちょっと上の新庄世代は「パフォーマー」、僕やちょっとしたのイチロー・松井・松坂世代は「チャレンジャー」、そして、マー君・佑ちゃん世代は、「自己教育力」がキーワードの「ティーチャー」。さて、あなたたちは…。という内容。あれから4年、いよいよマー君と佑ちゃんがプロで対決する。教育力の違いはいかに…? …でも今考えると「ティーチャー」よりは「マネージャー」の方が合ってるかな?

矛盾

斎藤孝氏も、宇佐美寛氏も、著書の中で、「教えることをしなくてもいい状態にすること」が授業や指導の目指すことだと確か述べていたと思う。

ドラッカーも「マーケティングの理想は販売をしないこと」と述べていたらしい。

同じゼミの人に、僕は偉そうに「導入は、「導入が必要ない状態にする」ために必要なのではないか」と述べたことがある。

合唱で、究極の理想は、「僕がいなくても成り立つこと」(指揮者がいない、練習が必要ない)ことだと考えている。

学級でも、理想は「学級担任の匂いがしないクラス」だ。

授業しなくてもいい状態とは何か。そのために何をすべきか。
担任がいなくてもいい学級とはどういう学級か。そのために何をすべきか。

「対話型鑑賞授業」「対話型学級経営」は、それを必要としない状態に結び付いているか…?

理想の状態と、目の前の生徒とのギャップは何か?

そして考えると体が動かない…(実践力の低下)

四知

「天知る、地知る、子知る、我知る」

校長訓話より。

校長のぶれないキーワードは、「自信をもつ」ということ。

さっそく、学級通信でこの教えのエピソードを紹介し、「隠し事をしたり、裏で卑劣なことをしたりするのではなく、正々堂々・公明正大に生きようじゃないか」と呼びかけた。

2011年1月29日土曜日

学級閉鎖

10回目の学級担任、初の学級閉鎖。

う~ん、指導がよくなかったかなぁ…対応も対処もよくなかったかなぁ…。

そんな自分は、子どもを帰した後発熱。学級閉鎖初日に自分も休む。

でもインフルエンザではありませんでした~人生36年、いまだ罹患せず、我ながらしぶとい。

学級(自分も)はまずまずのスタートを切っていただけに残念。

来週から仕切り直しです~

2011年1月17日月曜日

最近の鑑賞授業にて

ワークシートを配布して、「聴きながら記入しましょう」というパターン。

聴いた後でワークシートを配布して「思い出して記入しましょう」というパターン。

状況に応じてどっちもありだな。
今まで前者しかつかったことなかった。

学級通信

校長訓話を載せ、昨年末に紹介した頼山陽の詩を再び紹介した。

翌日、橋本佐内の「啓発録」を紹介した。

今週は、孔子の「立志」を紹介する予定。

頼山陽13歳、橋本佐内14歳、孔子15歳。

つまり中学3年間は、志を立てるにふさわしい時期なのだ、と。

そして、恥ずかしながら自分の「立志の作文」を紹介する予定。

自分が20歳の時のもの(遅い…)だが、以来紆余曲折があったものの、その作文の通りになろうとしている。

新年にあたり、そんなあたりを伝えたい。

2011年1月11日火曜日

「目標」と「志」

始業式での校長訓話。

体育館に大きな額に入れられ飾られているこれまた大きな「立志入魂」。
立志とは何か。
王陽明は、「いかなる生き方をするか覚悟することである」と弟に述べたという。
目標とは、自分を高めることである。
志とは、世のため、人のため、社会のためにすることである。
王陽明は「学問は志を立てること以外にない」とも述べている。
目標・志を持ってがんばってほしい。

というような内容だった。
「目標」と「志」の違いがすっきりした気がした。

昨年末、最後の学年朝会で、頼山陽の有名な「十有三春秋」の詩を紹介した。
「13歳の正月だからこそ、志や目標を立てよう」というメッセージを送ったつもりだった。
校長先生の話がリンクしてくれたのは嬉しいことだがさらにつなげていきたいものだ。
「目標」と「志」の意味をしっかり分けて…。

さて。自分はどうか。
目標:プロの腕を持つ教師になる
志:「芸術力を身に付けた生徒」(生涯歌い続ける、生涯鑑賞を楽しむ)を育てる
ということになるのかな…。

2011年1月2日日曜日

あけましておめでとうございます

何かと苦しい1年でした。
仕切りなおして頑張りたいと思います。

今年のテーマも「実践・発信・人脈」です。
昨年のキーワードは実は「コミュニケーション」…惨敗です、大反省です。
今年のキーワードは…「心磨き」と「ライフログ」で行きます。

また、実践・発信ともに、「準備段階」と「記録段階」にもう少し力を入れていきたい。

何より、もう少しこのブログを活用できるように…。

あと、1つプロジェクトを立ち上げたいなぁと思っています。
はっきり言って無理なんですが、無茶なことを考えられるようになっただけでも僕的には復活傾向です(?)

今後ともよろしくお願いいたします。