2011年7月31日日曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか? 2

私が学生時代の話です。
友人Aは、大学の管弦楽団に所属して、熱心にヴァイオリンに取り組んでいました。そんな彼は幼少時からピアノを習っており、絶対音感がありました。ある時、雑談の中でAは私に言いました。

「俺、嬰へ調の曲を聴くと、柑橘系の色というか、気温が高いイメージがするんだよね」

私は絶対音感はありません(相対音感もありません。きっと大体音感なのでしょう)。パッとその曲を聴いて何の調かも聴きとれない私にとってはAの話は「???」でした。

この話を私は友人Bにしてみました。Bは大学で声楽を専攻しており、積極的に合唱活動に取り組んでいました。やはり彼も絶対音感を持っていました。Aがした話を聞いたBはすぐにこう言いました。

「あぁ、そういえばTUBEの『ああ夏休み』は嬰へ短調でしたね」

私はびっくりしました。この2人は「嬰へ調」という要素から、何かしらイメージを感じ取ることができているのです。しかもそのイメージは共感しあう部分があったのです。

私は「調性」という要素から醸し出される雰囲気を感じ取ることが自分に欠けているということを痛感しました。今でも苦手ですが、この経験から自分が音楽活動をする際、楽曲分析やコンサートの選曲などの場面で調性を意識するようになりました。

学生時代に私が立ち上げて指揮している合唱団があります。その合唱団が、まど・みちおさんの「ことり」という詩に私の大学の先輩が作曲した無伴奏混声合唱曲を練習していた時のことです。作品は、基本的に教会旋法風なメロディーと短調のハーモニーによって形づくられています。私は練習中の雑談で、「やっぱり新潟の人だよな(私も先輩も)。空をイメージする時は曇り空だよ」と言いました。そうしたら、あるメンバーから「そうかな? 私は透き通るような青い空だと思うよ」と声が上がりました。

私はハッとしました。私は、
短調の響きが鳴る → 暗い感じがする → 曇り空
というようにイメージしました。
しかし、空を見上げた時、悲しくなるくらい青い空のように感じることも確かにあります。その気持ちが短調の響きや教会旋法のメロディーと相通ずる部分があってもおかしくありません。私は安易な気持ちでイメージを語ったことを後悔しました。

同じ要素(短調の響き)から、どのように感じ取るかは、人によって違うことの方が多いようです。人によって感じ方が違うことを知ることも楽しいですし、もちろん、先の「嬰へ調」の話のように、感じ方が一緒だということが分かった時も楽しいでしょう。

鑑賞の授業では、音楽を形づくっている諸要素を知覚し、そこから醸し出される雰囲気や曲想を感じ取ることが大切であり、その時もやはり「人とのかかわり」を抜きに語れないようです。

2011年7月29日金曜日

音楽鑑賞の授業が対話型になっていますか?  

*以下の文章は安野功先生の『社会科の授業が対話型になっていますか?』(明治図書)のパロディーのつもりです。安野先生の著作に敬意を表し、少しでも近付きたいと考えております。


<眼はそれを追い求めるものしか見つけることはできない>
 これは、フランスの警察に掲示してある言葉だそうです。(確か向山洋一先生の著書の中で知りました)。
 そして、以下のように言い直すこともできるでしょう。
<耳はそれを追い求めるものしか聴きとることはできない>
 私が中学生の時の、給食の時間の話です。
 私の学校ではグループごとに向かい合って歓談しながら毎日給食を食べていました。
 ある時、同じグループの級友が私に言いました。
 「ちょっと耳を澄ませてみろよ」
 それまで、給食中の私の耳には、友達の話か校内放送くらいしか入ってきませんでした(むしろ食べることに夢中だったかもしれません)。
 私は、初めて給食中に周囲の音に集中してみました。
 「ズズーッ ズズーッ」
 その日の給食は麺類でした。私は、クラスのみんなが麺をすすっている音を人生で初めて知覚しました。今まで気付かなかったのが不思議なくらい大きな音で驚いたことを今でも鮮明に覚えています。でも、級友に言われなければ私は気付くことなく中学を卒業していたでしょう。
 あまり品のよい話ではありませんでしたね…。もう少し上品な話にしましょう。
 大学時代、教養科目の中の「音楽」という授業を聴講しました。教材はワーグナー作曲楽劇《マイスタージンガー》です。まず前奏曲を聴きます。出だしからかっこいい音楽が流れますが…当時の私は聴きながらだんだん意識がもうろうとしてきました。結局わけもわからないまま10分ほどが過ぎました。その後、先生が楽譜を配って解説をはじめました。前奏曲の山場で、個性が全く違う4つのライトモチーフが同時に進行して1つの完成された音楽を形づくっているところです。これには驚き、感動しました。最初に聴いた時は全く気付かず、単なる音の羅列としか思えなかった(そして眠たくなった)のですが、実は計算されつくした構造で、意味あるものになっていたとは…。
 それから聴き直してみると、確かに1曲の音楽の中に、4つのライトモチーフが同時に聴こえてきます。何回か聴いているうちに、この山場を聴くのを心待ちにするようになって、この曲を短く感じるようにもなりました(つまり眠たくならなくなりました)。もちろん、その後楽劇そのものを鑑賞する際も、ライトモチーフが頭に入ってから聴くことができたので何も知らないよりは興味をもって楽しむことができました。
 これも、この授業を聴講しなければ、一生知ることのない経験だったと思います。
 <耳はそれを追い求めるものしか聴きとることはできない>
 音楽を形づくっている諸要素は、自分自身で探すよりも、他者とのかかわりの中でヒントを得たり教わったりする方が、よく気づくことの方が多いかもしれません。
 鑑賞の授業では、教えるべき内容をきちんと教えて気付かせたり、クラスの仲間とのかかわりの中で気付いていったりすることを大切にしたいものです。

2011年7月25日月曜日

対話型音楽鑑賞授業研究会

今夏、中学音楽教師サークル「異邦人の会」主催で、表記勉強会を行います。

そのためのテキストを、これからこのブログ上で作成していきます。

先日、同業者の後輩たちに「合唱指導」の講座を持ちました。
全然うまくいきませんでしたが…。
でも、今後も、合唱指導や「合唱指導」の指導には、呼ばれたら「出向いて」行こうと思います。

もう1つのライフワーク、鑑賞授業については、「招いて」行ってみよう、と考えたわけです。

さて、どうなりますか。

ただ、今の心境は、「できるかどうか自信はない、ただ動いてみたかった」という、久々にわいてきたこの根拠のない感情に素直に従った、といったところです。