2013年2月11日月曜日

音楽鑑賞とラーメン

 某ラーメンマンガを読んでいた時だ。
 そこに登場するラーメン評論家が、世の中の人々が「『ラーメン』を食べているのではない。『情報』を食べているのだ」というようなセリフを言っていたシーンがあった。これを読んでドキッとさせられた。
 「自分は本当に『音楽』を聴いているか?」「『情報』を聴いているだけでないのか?」
 例えば、私事だが、チャイコフスキーの音楽を聴いて、「寒い」と感じるのは、音楽そのものを聴いて感じるのではなく、「ロシア」をイメージして聴いてしまっているからで、ひょっとしてこれは正しく音楽を理解するためには邪魔なことなのではないか、と思うのである。
 ヒット曲を、無名の人が歌ったら本当にヒットしたのか…? プロモーションの勝利なのではないか?  その曲の成立背景における「感動秘話」に感動して聴いていないか? 本当に音楽だけを聴いて、伝わり、感動できるか?
 演奏会前に、プレイヤーがしゃべったりプログラムノートに書いたりしてあること「を」聴こうとしてしまっていないか? それでいいのか?
 つまり、鑑賞しようとしている曲の「情報」だけを聴き取っていないか? ということなのである。
 もちろん、「情報を知れば知るほど鑑賞が豊かになる」みたいなことを、友達の誰かが言っていたが、それはそれでその通りだと思う。
 が、鑑賞の授業で「情報だけ」を取り上げる、というのがまずいのだと思う。音楽を聴く、という本質がないがしろになってしまう。「あそこのラーメン屋さんが有名だから」「みんなおいしいって言っていたから」食べるようになることと同じで、自分の感性を無視して情報のみで音楽を判断してしまわないだろうか。
 結局、記号解釈なのだ。
 「雪」という記号を、沖縄の人と新潟に人が、それぞれ自分の中にある「意識という名のプール」に浸し、出てきた感情は、同じ「雪」でも違うはずだ。
 同じラーメンを食べても、人によって出てくる感情は違うはずだ。
 同じ音楽を聴いて、それを自分の意識という名のプールに浸して、出てきた感情は、違うはずだ。
 ただ、音楽には2種類の記号解釈があるような気がする。
 音楽を構成する要素を聴き取って、感じるもの。
 音楽に付随する情報を解釈して、感じ取るもの。
 「感性のプール」と「知性のプール」というか、そういうものがあるのではないかと思う。もちろん、それが一体となった「私だけのプール」というのを認識できているのが一番良いと思うのだが…。
 某美食マンガは、一般人の味覚の表現の幅を格段に拡げた功績(?)があると思うが、これを私のように「情報収集・知識の蓄積」や「マニュアル本」のようにして読んでは意味がないわけで(「あぁ、この食べ物はまったりとしてそれでいてコクのある食べ物なんだ、と認識だけするような」…。  そういえば、ある著名な法人作曲家が「知性と感性をキャッチボールして作曲する」みたいなことを書いていたっけ。
 授業では記号解釈の方法を伝え、普段の生活でそれを生かしてほしい。それが音楽の授業、音楽の指導ではないかと思う。
 でも、今生徒たちは、明らかに「情報」のみで判断しているように思えてならない。ラーメンと同じように…。
 <中学生が「その音楽が好きな理由」でよく書くこと>。
「歌詞がいいから」「○○が歌っているから」「好きなゲームの音楽だから」「まわりのみんなも好きだから」

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